ウクライナ再訪記① 日本国民党政策局長 川東大了
再度ウクライナへ
一年ほど前に私はウクライナのリヴィウ・キーウを一週間ほど訪問した。オーロラを観たいと思い立っての旅で、北欧を旅した寄り道にウクライナを訪問したものだった。
その時は、戦争の傷跡や、非常事態である事などは体感したが、戦争開始から二年を経過しており、町は概ね綺麗に見えた。電車やバスが運行し、人々は普通に街中を歩き、夜になると若者は路上でスケートボードでていた。
そして今回、再び四月六日から十三日まで七泊八日の日程でウクライナを周遊して来た。遊んだり、恋人同士が手を繋いで歩く姿を見て正直な感想として「平和」にしか見えなかった。少なくとも、多くの人々が祖国に留まって、そこで生活を続け、日常を守っている姿を見た。
そして私は避難して来ているウクライナ人に対して「早く祖国に帰って、祖国で生活をする事も祖国を守る為の大きな戦いだ」「このまま戦争が終わるまで (日本に)避難していたら、戦後に祖国に戻った際に卑怯者だと非難され、肩身の狭い思いをする事になるぞ」と言う趣旨の感想を去年の本紙で述べ
モルドバからハルキウを目指す
前回はポーランドから陸路でウクライナに入ったが、今回はモルドバから陸路でウクライナ入りした。
ウクライナ南部のオデーサに二泊→東部のドニプロに二泊→さらに北上してハルキウに二泊→オデーサに一泊の順番で三つの都市を見学した。
ウクライナでは空襲警報アプリがあるらしく、そのアプリをインストールしていると警報が発令されると報せてくれるシステムになっているらしいのだが、私は去年の経験から周りの人達のスマホや様子で伺い知る事が出来ると思ってインストールはしていなかった。
最初にオデーサで泊ったホテルは地下に駐車場があるホテルで、チェック・インする際に受付で「空襲警報がなった時は地下へ避難して下さい」と言う趣旨の説明を受けた。言葉は通じないので、翻訳アプリを使っての会話ではあるが、地下施設が防空壕の役割を果たしているのだ。こうした説明から戦時下である事を改めて認識する。
アプリを入れていないので、オデーサ滞在中に警報があったのか無かったのかは分からないが、実際には警報が出たと言ってもその都度、宿泊客が地下へ避難しているような感じはしなかった。オデーサでの滞在は去年のリヴィウ・キーウの滞在に近く「平和」に感じた。
前線から百キロの都
しかし、次に訪れた東部の都市ドニプロはやや雰囲気が違った。
まず、バスで市内の中心地の辺りに到着し、グーグルマップで検索して路面電車を使ってホテルに向かう。
ホテルの最寄りの駅を降りた所はやや栄えた場所でマクドナルドがあって、綺麗なショッピング・モールもあり、二十四時間営業 (実際にやっていたのかは未確認)のカラオケなども街の各所に設置されたコンクリート製の防空施設あった。
人通りも多く、随分と賑やかに感じられたのだが、目の前にコンクリート製のコンテナのような物が設置されている事に気づいた。もしや 「防空壕」かと思って近づいて確認してみた。もしかすると公衆トイレかもしれないと思ったが、中を見るとやはり 「防空壕」であった。
「防空壕」と言ったが地下に掘っているのではなく箱を置いただけのような物だったので 「防空施設」といった方が的確かもしれないが、リヴィウやキーウでは見なかった物だ。
鳴り響く空襲警報
一部ロシアに制圧されている最前線から約百キロほどの町なので、非常時の備えが一段と厳重になっているのが分かった。私の住む大阪から同じ距離なら滋賀県の彦根や京都府の舞鶴あたりだ。
なお、ドニプロ滞在中は、しばしば街中を観光している際にサイレンの音が鳴るのを聞いた。おそらく空襲警報だ。
警報が鳴った途端に通行人の皆が防空壕へ駆け込むような事はなかったが、マクドナルドは警報が発令されると一旦店を閉めるようで、これは去年のキーウでも経験済みだが、割と一日に何回も起きる様子だった。
祖国の為に殉じた英雄に対して、当たり前の行動なのだが、私の祖国日本では政府が先頭に立って物言えぬ英霊に対して「人さらい・強姦魔・侵略魔だ」と事実無根の冤罪をでっち上げて、名誉を貶めている。それを思うと純粋に戦死した英雄たちを追悼するウクライナの人々の姿がうらやましいような悲しいような複雑な心中でもあった。
戦時下で日常を守る庶民の勇姿
とは言え、無責任な観光旅行者の直感的な感想で言えば、恐怖などを感じる訳でもなく、町は電車もバスも普通に動き、ショッピングモールに入ればブランド商品、オモチャ、色々な物が販売されていた。スーパーなどでも何不自由なく食材や酒も買えて、食事をするためにレストランに入っても家族連れやカップル達が美味しそうにご馳走を食べていて、全く戦争中であるとは思えないほどに「平和的」だった。
しかし、わずか百キロほどの町では、その一部がロシアの侵略を受けており、そして、しばしば空爆の被害が出る事も確かな事実であり、状況次第ではロシア軍がドニプロにも侵攻して、場合によってはブチャやイルビンのように市街戦が起き、戦災に巻き込まれる恐れも絶対にないとは言えないはずだ。
そのような危険と隣り合わせを承知の上で覚悟を持って自分達の住む町に留まり、逃げ出す事もなく、そこでご飯を食べて仕事をし、週末には家族と遊びに出掛けたり、恋人とデートをしたりして、必死に「日常」を送り続けている彼ら庶民の姿に敬意を感じた。
それは去年にも感じた事であるが、改めて非常時にこそ、しっかりと自分の生活、自分の持ち場職場での仕事、自分の日常を守る事の重要さを感じた。危険と隣り合わせの中で、勇気と覚悟を持って生活を継続するのも、祖国防衛の為の立派な戦いに参戦しているのだ。
翌日、私はバスで北上し、更に奥地へと進み、ロシア国境から三十キロの都市ハルキウへと向かった。(続く)
(しんぶん国民5月号)