【先人を偲ぶ】第一回 山崎幸一郎先生

山崎幸一郎先生

山崎幸一郎先生

 我が党の「党祖」とも言うべき山崎幸一郎先生は、今からちょうど100年前の大正8年10月28日、茨城県の水戸にお生まれになった。折しもドイツではナチス党が、ソ連ではコミンテルンが、支那では孫文によって中国国民党が創立された激動の年だ。

 そうした時代の中で多感な少年期を過ごされた山崎先生は、昭和19年に帝国陸軍水戸歩兵第二連隊として満州に出征。敵陣に切り込むなど勇戦を重ねる。激戦の最中、敵弾を身に受けながらも奇跡的に一命を取りとめ、戦後はソ連による厳しいシベリア抑留を経て、日本に復員する。

 しかし、帰還した祖国では、赤旗を振り回し、日本を否定する共産主義者たちが大手を振ってデモと称した暴動を頻発させ、時あたかも「革命前夜」とすらささやかれていた。

 山崎先生にとって長い長い「二度目の戦争」が始まった。同憂同志を集め、熱烈なる愛国運動を始められたのだ。その仲間の中には、関東軍作戦主任参謀まで務められた草地貞吾先生もおられた。この運動はやがて「日本民族覚醒の会」となって結実する。

 さらに歩みを進め、愛国者の大同団結による組織政党の必要性を考えておられた山崎先生は、東京都内の同志たちを糾合し、全国組織に参画する。山崎先生はその党名に「日本国民党」を推したが成らず。平成8年1月27日に政治団体「維新政党・新風」の東京都における支部「維新政党新風東京都本部」を結成して代表となり組織の中核を担われた。首都という利点と、東京都本部党員たちの積極果敢なる活動によって、東京都本部は瞬く間に組織内最大勢力へと成長したが、それも全て山崎先生の人徳と手腕による所が大きかった。

 テレビ朝日の「朝まで生テレビ」にも元日本兵として出演されたこともあった。

左から鈴木代表、山崎先生、一人おいて松村久義氏。平成8年

左から鈴木代表、山崎先生、一人おいて松村久義氏。平成8年

 山崎先生は徹底した「情」の人であった。それ故に、当時の党中央執行部とは何度も衝突された。ある時、一人の党員が些細な不祥事をしてしまった。当人はそれを詫び、引責した。しかし、それでもなお追加処分を下そうとする党執行部に対して、「そんな事をしたら彼の人生が壊れてしまうではないか。絶対にそんな事は許さない」と、頑として処分を拒否して守った。そんな事が幾度か続いた末、「こんな人としての情けを持たない者とはやっていけない」と、党と訣別すると漏らされはじめた。思えばこの時すでに、のちの平成29年7月に起こる「独立」の伏線があったのだ。

 しかし、これには当時の東京都本部の皆が慌てた。「先生がおられなくなったら東京都本部がバラバラになってしまいます。どうか堪えてください」

 その時、堪えてくださった山崎先生がおられたからこそ、今日の日本国民党がある。

 右派陣営といっても、穏健な保守派から行動右翼まで多種多様だが、そうした山崎先生であったからこそ、言論を専らとする学者から現場で派手に戦う運動家まで幅広い尊敬を集め、様々な団体の相談役や顧問を歴任された。こうした人物は現代では中々いないだろう。

 山崎先生は平成12年2月22日に永眠された。葬儀には旧軍・自衛隊関係から数々の民族派団体まで多くの供花があふれ、参列者を驚かせた。

 日本国民党では命日の2月22日に山崎先生を偲んでいる。