わたしの流儀 第7回 日本国民党政策局長 川東大了

 様々な立場から日本を守るために活動する人たちを「しんぶん国民」が取り上げる。第7回目は日本国民党で政策局長として活躍する川東大了氏。

お坊さんに命名
 
 私は昭和四十六年七月に大阪府内で三人兄弟の末っ子に生まれ、大阪で育ちました。「大了」という名前は近所のお坊さんに名付けてもらったそうです。
 親父はお好み焼き屋を経営していましたが、なぜか「土地転がし」が特技で、鉄板を焼きながら不動産を右から左に転がして財を成していました。母も生命保険の外交員をやっていて、明るく社交的な人でした。
 
自虐史観への違和感
 
 昭和五十年代の子供時代は、近所の友達と自転車で大阪中を走り回ったり、登場したてのファミコンで遊んだりしました。高校は太成高校の理数科に進学しました。
 中学、高校では「日本は悪いことをした」という自虐史観教育がおこなわれていましたが、「なんでそんな悪い国がこんな平和で豊かなんやろう。この教育はおかしいんやないか」と違和感を覚えました。
 在学中に昭和天皇が崩御されましたが、終戦と戦後日本の全てを背負って国民と共に歩まれた素晴らしい方だと高校生ながら自然に感じていました。
 高校を卒業してから近所の金型屋に就職し、それから電気配線の会社に転職しました。
 
スキーにハマり独立
 
 バブル末期の頃、スキーにハマってしまい、休みの日は必ずスキー場に通っていました。そのうち、「平日も滑りたい」という願望が高まってきて、「独立して自営業になったらスキー滑り放題やん」と気が付いて、電気屋として独立して現在に至っています。
 
行動保守の動画を見て運動へ
 
 平成十九年の十一月、東京の数寄屋橋で在日本大韓民国民団(民団)が「外国人参政権」を要求するデモ行進をやり、それに対して主権回復を目指す会や在日特権を許さない市民の会が少人数ながら猛抗議をしている動画を見ました。「ゴミはゴミ箱に、朝鮮人は朝鮮半島に」という演説に衝撃を受けました。それですぐに在特会に入会しました。
 平成二十一年に京都のウトロ地区で街宣活動があるというので、そこに顔を出して京都の西村斉さんらと知り合い、一緒に運動するようになりました。当時は運動の参加者も多くはなかったので、私が在特会の「関西支部長」になりました。
 
朝鮮学校から児童公園を奪還
 
 その年、京都市南区の公園が京都朝鮮学校に「グラウンド」として占用されているという話が来たので、京都朝鮮総連に対して「撤去期限」を定めて「警告」をしにいきました。それにもかかわらず、朝鮮学校側が撤去に応じなかったので、十二月四日、西村斉さん、荒巻靖彦さんら仲間十一人で実力撤去におよびました。私は公園内に設置されていた「放送設備」の配線を切断して撤去しました。
 
獄中に端座
 
 これがのちに「京都朝鮮学校公園占用抗議事件」となり、翌年の八月十日に私を含めて四人が京都府警に逮捕され、九月には徳島日教組に抗議した件で再逮捕されました。保釈されるまで都合五十二日を獄中で過ごしました。「取り調べ」といっても、「事件」の様子は全部動画サイトに上がっているので、坦々とインタビューを受けているようなものでした。
 獄中では「恥ずかしい事をして捕まった訳ではないし、特攻隊やシベリア抑留された先人たちに比べれば苦難でも何でもない。仕事の電話もかかってこないし、ゆっくり出来る。人生の中にこんな時間もあって良い」と思って、のんびりと思索や読書に耽っていました。
 そんな気持ちで獄中生活をしていた時、尖閣諸島沖で海上保安庁の巡視船に衝突し、公務執行妨害で逮捕されていた中国人船長が、「日中関係に配慮」を理由に処分保留で釈放される出来事がありました。自分が獄中にいた事もありますが、あれほど日本人として悔しい事はありませんでした。
 
市民運動から政治へ
 
 釈放され、平成二十三年に器物損壊、威力業務妨害、侮辱などで懲役一年六カ月、執行猶予四年の判決がおりました。
 釈放後、仕事で奈良県に行くと、水平社博物館で「コリアと日本 韓国併合から百年」という特別企画展をやっているというチラシがあったので、見に行きました。
 すると案の定、「朝鮮人従軍慰安婦強制連行、性奴隷」と展示されていたので、後日、街宣車で抗議に行きました。それで水平社から民事訴訟で訴えられたりもしました。
 その後、市民運動の限界を感じるようになり、世の中を変える為には政治を動かさなければいけないと思ったので、在特会を辞めて鈴木信行代表の維新政党・新風に入党しました。平成二十七年四月には、「新風公認」で枚方市議会議員選挙に立候補しました。
 
色々と「第一号」になる
 
 その時のチラシに、正直に今までの運動歴と逮捕歴を載せて、パチンコと外国人生活保護を廃止すると堂々と書きました。これに対して、綺麗事ばかり言っている党の老害が噛みついて来て、「こんなチラシ配るな! 離党しろ!」と怒鳴られました。鈴木代表は「これから戦争(選挙)に行く人間から鉄砲玉(チラシ)を取り上げるようなマネは出来ない」と、徹底して庇ってくれました。
 選挙はパチンコと外国人生活保護問題を徹底的に訴えて戦いました。当選には及びませんでしたが、千二百二十六票も獲得できたのは有難かったと思っています。
 平成二十八年に「犯罪の統計的数字で見ても朝鮮人は危険だ」と演説した事で、令和元年に大阪市から「ヘイトスピーチ認定」で氏名公表の「第一号」にもなりました。令和三年十二月にも二度目の「認定」を受けています。
 平成二十八年に鈴木代表が新風の代表を退任すると、翌年すぐに私は「除名処分」となりました。ここでも新風除名の「第一号」になれました。
 その年の夏に、鈴木代表たちも新風から脱退したので合流して一緒に運動をしています。
 
東南アジアを渡り歩いて
 
 今の趣味は東南アジアをのんびりと旅行することで、一回渡航すると一ヶ月ちかくかけて色んな国を渡り歩いて旅します。現地の人と他愛もない話をして、その国の風土や歴史が、そこに暮らす人々の思考や仕草をどのように形作っているのかを考察するのが楽しいです。
 東南アジアは若者たちがとにかく我武者羅、一生懸命頑張って生きていて、それを見ているとこちらも元気が湧いてきます。
 私は戦国時代の武将であった大谷吉継を尊敬しています。吉継はハンセン病だったとされます。茶会があり皆が茶碗で回し飲みする時、吉継が口を付けた茶碗を皆が嫌がる中、石田三成だけが普通に飲んだとされます。その心意気を感じて、石田三成に何度も諫言しつつも関ヶ原の戦いでは共に戦い、殉じたとされます。人間、政治家としては「愚か」な選択かもしれませんが、そうした吉継の節義と生き様に感銘を受けました。
 もう私も五十歳を過ぎました。幸いに体は極めて健康ですが、これからは次の若い世代の運動家が、バリバリと思いのまま運動できるように支援していきたい。五体の動く限り日本の為に戦っていきたいと思っています。
 
《略歴》
 昭和四十六年生まれ。大阪府出身。太成高等学校卒業。平成二十一年から行動する保守運動に参加し、在特会副会長をつとめる。平成二十二年、勧進橋児童公園不法占用抗議事件、徳島日教組抗議事件で逮捕。平成二十七年、三十一年と枚方市議会議員選挙に出馬。平成二十九年より日本国民党政策局長となる。
(聞き手:編集部)