わたしの流儀 第6回 拉致被害者の生存と救出を冀ふ國民の會 代表代行 加藤哲史

 様々な立場から日本を守るために活動する人たちを「しんぶん国民」が取り上げる。第六回は拉致被害者の生存と救出を冀ふ國民の會と、日本国民党組織統制局国民運動部長もつとめる加藤哲氏

先生の言う事聞かない小学生
 
 私は昭和三十九年に埼玉県川口市に生まれました。実父は私が幼い時に病気で亡くなりました。以来、母が和裁などの仕事を掛け持ちしながら、女手一つで私を育ててくれました。亡くなった父は、外出したら「忘れ物がないか」と毎度、部屋に戻ってくるぐらい心配性の人だったそうで、そこは私も似ていると言われました。
 小学校に入ると、先生の言う事を全く聞かず、宿題にいたっては全くしなかったので、先生と親に、今の時代では表現できないような叱られ方をされたこともあります。中学校からは勉強もするようになり、農業高校に進み芋や梨を作っていました。
 
病に倒れ読書
 
 卒業後、製菓会社に入ったのですが、そこは昔ながらの職人気質のかなり厳しい世界で、同僚や先輩が職人たちに怒鳴られているのを見ていると、ストレスで、てんかんを発症し発作で倒れてしまいました。それでその職場をやめて、短期のアルバイトを続けるという暮らしをしていました。
 その間、黙々と読書を続けていました。撃墜王として知られた坂井三郎氏の『大空のサムライ』や、阿川弘之氏の『山本五十六』『米内光政』を読み耽っていました。
 そんな中、平成七年に小林よしのり氏の『戦争論』には衝撃を受けました。その頃、「朝まで生テレビ」を左翼論客がメチャクチャな事を言っているのに、さらに驚きました。日本ではこんな反日が大手を振って罷り通っていることに強烈な違和感を持ったのです。
 
『戦争論』から「つくる会」へ
 
 平成十年に「新しい歴史教科書をつくる会」(つくる会)が、「シンポジウム「小林よしのり『戦争論』をめぐって」を開催したので参加し、そこで「つくる会」の会員になり、地元埼玉の運動仲間や、西村修平氏と知り合い行動を共にするようになりました。
 平成十一年には左翼が「従軍慰安婦」を描いた映画の上映会をするというので、会場まで抗議に押し掛けました。敵はこちらが入れないように机や椅子でバリケードを作って完全封鎖。こちらもバリケードを殴る蹴ると激しい小競り合いになったりもしました。
 
拉致問題との出会い
 
 そんな中で、当時の都議会議員の紹介で拉致被害者救出署名運動を手伝うようになり、横田ご夫妻と知り合いました。
 まだ「拉致問題」が「拉致疑惑」と言われ、世間も丸で「変な人」を見るような目でご夫妻を見ていました。それでも健気に署名を集める横田ご夫妻の姿に感じるものがあり、私の中で「拉致問題」が非常に大きなものになりました。
 
自民党議員が拉致被害者家族を罵倒
 
 平成十二年、自民党が北朝鮮に「米支援」をするというので、「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(救う会)が自民党本部前で抗議の座り込みをしました。自民党議員はこれを無視するどころか、座り込む拉致被害者家族に罵声や暴言を吐く者が何人もいて、怒鳴り合いになりました。
「今の支援じゃ少ない。もっと十倍以上支援すべき」と、拉致被害者家族にのうのうと言った馬鹿議員もいました。応援に駆け付けてくれたのは、平沢勝栄代議士と西村眞悟代議士の二人だけでした。
 
小泉総理靖国神社参拝をめぐり…
 
 平成十三年、小泉純一郎総理大臣の「八月十五日靖国神社」が問題になりました。これに反対する左翼や外国勢力が神社境内に押し掛けてきました。我々も連日境内に張り込んで、やって来た左翼勢力と衝突を繰り返していました。
 八月十三日、小泉総理が外国や野党の声に折れて、「十五日参拝」をやめ、前倒しで参拝することになりました。これを日本会議などが「日の丸で歓迎しましょう」とやっていたので、西村修平さんらと抗議に行き、拡声器で「歓迎する保守」を糾弾し大騒ぎしました。
「おまえら『保守』が政治家の妥協に阿諛追従してると、政治家は最後には靖国神社に参拝しなくなるぞ! 馬鹿野郎!」と、かなり厳しい言葉を言いましたが、実際、今この通りになっています。
 
女性国際戦犯法廷と対峙
 
 平成十二年の暮れから、「従軍慰安婦問題」や「日本軍戦争犯罪」を糾弾する「女性国際戦犯法廷」が九段会館(旧軍人会館)で開催されるようになりました。内容もとんでもないですが、旧軍人会館がそんな催しに会場を貸すことにも抗議しました。
 以降、「女性国際戦犯法廷」が開催されれば、押し掛けて抗議を繰り返していました。平成十三年七月、「女性国際戦犯法廷」の映画上映会があるというので、神奈川県民センターに西村修平氏らと押し掛け、ヤジを飛ばしまくって騒いでいましたが、「昭和天皇に有罪判決」という映像に会場から拍手が起き、これに我慢できなくなった仲間が缶ジュースを投げつけ、集会が中止になりました。
 
逮捕と長期拘留
 
 これが元で四か月後の十一月、神奈川県警に威力業務妨害で私をはじめ五人が逮捕されました。初めての逮捕で心細かったですが、すぐに地元の「神奈川県維新協議会」の皆さんが街宣車を連ねて「加藤哲史さん、頑張ってください」と激励街宣に来てくださり、本当に有難かったです。
 検察に送検されると検事が、私に「なんだお前、その態度は」と罵倒してきたので、「こっちだって来たくてこんな所に来てんじゃねえ!」と怒鳴って、検事の机の上の物を全部叩き落して、机をひっくり返してやりました。刑務官(?)に大慌てで制圧されましたが。
 その後、「つくる会」の教科書反対運動をしていた国立市議を脅したとして、立川警察署に再逮捕されました。この日、再逮捕初日に警察官と口論になり、牢屋の鉄格子越しに警察官の顔面にツバをかけたら、警察署の道場に連行され簀巻きでボコボコにされたりもしました。この立川署はメシが粗末過ぎて、体重が十キロも落ちました。
 この時、外では柚原正敬さんや、多くの仲間が支援団体を作って救援に動き回ってくれました。西村眞悟代議士は衆議院法務委員会で「保守系活動家長期拘留問題」として取り上げてくださったし、國民新聞の山田恵久さんも取材として警察や法務省を回ってくれました。そうした支援を見た、私の母が「あんたはロクでもないけど、あんたの友達はみんな偉大な人たちばかりだ」と言ってくれたのを印象深く覚えています。
 
釈放され拉致救出運動へ
 
 結局、八ヶ月半ほどの拘留生活を経て保釈になったのは、平成十四年八月でした。奇しくもこの翌月、小泉純一郎総理大臣が訪朝し、拉致問題が大きく動き始めました。社会復帰してすぐに拉致被害者救出運動に取り組みました。
 釈放されたての私を煙たそうに見る視線は感じていましたが、そんな中で荒木和博さん(現:特定失踪者問題調査会代表)と東京都議の古賀俊昭先生は優しく接して下さり、その心遣いが有り難かったです。以来、古賀先生が亡くなられるまで地元日野での拉致署名活動をずっと手伝っています。
 平成十九年頃には「行動保守」が登場したので、その運動に参加するようになり、平成二十二年には維新政党・新風に入り、以来、鈴木信行代表のお手伝いもさせていただいております。
 
尊敬する人物と抱負
 
 私の尊敬する人物は阿南惟幾大将です。一命を賭して陸軍の暴発を押さえ、終戦という陛下の大御心実現の為に殉じた精神が尊いと思います。
 もう一人は、横田早紀江さんです。金正日が拉致を認め、「横田めぐみさん死亡」と伝えられた時、早紀江さんは「(拉致事件が)大きな政治の中の大変な問題であることを暴露しました。本当に日本にとって大事なことでした。北朝鮮にとっても大事なことです。そのようなことのために、めぐみは犠牲になり、また使命を果たしたのではないかと私は信じています」と述べたのを聞き、本当に偉大で強い人だと思いました。
 なので私の人生の抱負となると、古賀俊昭先生の遺訓でもあった「拉致被害者全員救出」に命ある限り取り組んでいきたいと思います。