戦時下を直接視察   ウクライナ訪問記①

日本国民党政策局長 川東大了

 私は令和六年三月四日から二十七日まで、欧州へ出掛けて来た。その訪問先の一つに、戦時下のウクライナもあった。ご存じだと思うが、ウクライナは二年前の二月二十四日に、ロシアの侵略によって戦時下となり、それに伴って日本国政府(外務省)はウクライナ全土に対して「危険情報レベル4」の退避勧告を出している。

 私はウクライナに六泊の旅程で入国し、リヴィウ・キーウといった都市に宿泊し、市街戦のあったブチャ・イルピンと言った町へも足を運んで来た。そのウクライナ訪問を振り返り、見聞し、感じた事などを記してみたい。

 最初にウクライナに行く事を思い立った経緯から簡単に話しておきたい。私は人生で「皆既日食」と「オーロラ」をこの目で実際に見たいと思っていた。皆既日食については昨年の四月に東ティモールの地にて観測する事が出来た。

 残るは「オーロラ」のみとなっていて、皆既日食に比べればオーロラは「見える場所」にさえ行けば、比較的簡単に観測が可能で、今回、私は北欧を選んだ。北欧を選んだ理由の大きなものは費用でもあるが、ヨーロッパ方面に行くので、行ってみたいと思っていた国や場所を「ついでに」見て回る事が出来るからだった。具体的には、アイルランド、北アイルランド、ポーランドのアウシュビッツ収容所、ウクライナだ。

 私はフィンランド、アイルランドを経てから、ウクライナの隣国ポーランド入りした。三月十五日にポーランドのクラクフから陸路、バスでウクライナに入国し、西部の街リヴィウにて一泊し、翌日の十六日からバスでウクライナの首都キーウへ移動して三泊。十九日に再度バスでリヴィウに戻って二泊し、二十一日にバスでポーランドのワルシャワへと出国した。合計で六泊七日間のウクライナ訪問となった。

 まず、今回のウクライナ訪問によって、私の中で最も変化したものがある。これまで日本や世界の各地に避難しているウクライナ人を「本当は一日でも早く祖国に帰って、祖国の為に戦い、或いは祖国の復興の為に力になりたい」と願いながら、何らかの事情によって祖国に戻る事が出来ない可哀想な人だと思っていた。今回、その考えが全く間違っていたと痛感した。

 なぜなら、それぐらいにウクライナの国や都市は、平和で安穏としていたからだ。もちろん、言葉も通じない旅行者が、たかだか一週間ほど「観光」しただけで全てが分かる訳ではないが、それでも、そう確信してしまうだけの「平和」がウクライナにはあった。

 まずウクライナへの入国を外務省が「渡航はやめろ」「ウクライナに居るならすぐに出国しろ」と勧告している事から、そこへ行けば「身の危険」を感じるような世界、いわゆる戦時下の世界があるのだと身構えていた。それこそ、戦争物の映画や漫画のイメージを抱いていた。

 しかし、ポーランドから国境を越えてリヴィウまでの道のりは、のどかな田舎道を走る平和な道程で、時折通過する少し栄えた場所では、どこの国でもよく見る平穏な風景が目に入って来る。商店などが並び、多くの人が買物や仕事で行き交い、日常生活を送っている。

 最初は、「そうか、前線からほど遠いこの地では戦争の被害とは無縁なんだな…」と思っていた。逆に言うと、東部の首都キーウの方へ行くにつれて、危険な雰囲気に変化していくのだと思っていた。

 初日、ポーランドのクラクフを発って、リヴィウの街には夜に到着し一泊した。リヴィウにて夜十時頃に街中を歩いて、店や商店を散策したが何事もなく営業していた。夜の十一時頃あたりでも、仕事帰りの女性が暗い夜道を歩く姿を見かけた。治安はかなり良い部類だと感じた。

 深夜、何か食べようと思って飲食店を探すと、どこも閉店しており、仕方なく、その時間でも営業していたスーパーで、お菓子だけ買って晩御飯にした。銃声や爆発音を聞くことも無くぐっすりと寝た。

 翌日、朝のバスで出発する為、リヴィウの昼間の様子は見ることもなく首都のキーウへ向かった。約八時間かけてキーウへ到着すると、キーウは日が暮れる時間だった。バスステーションで降りて、しばらく歩いた距離に大きな鉄道駅があった。

 バスステーション前の建物は解体中なのか、爆撃を受けたのか、壊れていた。通行人にスマホの翻訳アプリを使って「戦争で壊れたのか?」と聞くと、「半分正解で半分は間違い」との返答だった。

 駅の方まで歩いてゆくと、駅前にはマクドナルドが営業していて、若い人達も多く、楽しそうにハンバーガーを食べていた。駅も沢山の人が行き交っており、活気があった。駅の中を少しのぞくと電光掲示板があり、いくつかの列車は赤い色で表示されていたので、それが恐らく、戦争の被害で運休している路線のようだった。全体からすれば一割程度の路線が不通になっているような感じだ。

 この時は「戦時下の国の首都で時折ミサイルが着弾する。だから市民生活は破壊され、市民は日々、ミサイルに怯えながら生活している」といったイメージがあり、どこかそのように見ようとしている自分があった。そうした偏見があって、その偏見通りの「戦時下」の町をどこかで期待していたのかもしれない。しかし、その期待(?)が満たされる事は無かった…。

 キーウでは四つ星の高級ホテルに三泊したのだが、ホテルを出てすぐに大通りがあり、色々な店舗やビル、地下鉄などの施設が集まっている場所だった。

 まして土曜日の夜でもあり、夜の二十一時頃に晩御飯を食べに出掛けたが、大通りは若者が沢山出歩いており、とても賑やかだった。小学生くらいの子供も親と一緒に歩いていたり、犬を連れて散歩している人も見かけた。正直、「ショック」を受けた。

「はだしのゲン」ほどの光景があると思っていた訳ではないが、「戦時下」と言う事を知らなければ、絶対にどこにでもある平和な国の平和な町にしか見えないのだ。その辺の店に入っても、沢山の商品が並び、いくらでも食べる物はありそうだ。市民の身なりや素振りからは裕福な人達にしか見えない。

 通常、国内に貧富の格差があっても、首都は裕福層が多い。ウクライナも貧困率の高い貧しい地域や町はあるのかもしれない。しかし、首都キーウでは路上生活者のような姿は大きな駅前などの場所でわずかに見かけた程度だった。

 そして、飲食店はもちろん、バーやその他の商業施設や娯楽施設なども、普通に営業しているようにしか見えず、やっと目に見えた「戦時下」は独立広場に立てられてウクライナ国旗と戦死者の遺影群だった。「日本人義勇兵」の戦死者を悼む日章旗もあった。現代において、異国で日本人が戦死し追悼されているのだ。

 さすがに、そこにはしっかりと「祖国の為に戦って命を落とした兵士」の存在があり、戦時下である事を示していたが、その近くで若者は飲んで歌って陽気に恋人とイチャついていたり、スケボーのような乗り物に乗って遊んだりしている。

 開戦から既に二年経過しているから、開戦当初はもっと鎮魂の為に祈りを捧げる人達が集まるような場所だったのかもしれないが、私が見た光景はやや違和感を抱くものだった。

 翌日、どこかで「戦時下の国に来たのだから、それらしき場所を見たい」という好奇心もあり、「戦時下とはどんな事になるのか?」と知りたい思いもあり、タクシーの運転手に声を掛け、激しい市街戦のあったブチャ、イルピンの街へ走って欲しいと頼んでみた。

 千五百UAH(約六千円)ほどを提示すると喜んで案内してくれた。
 イゴールという私と同年代ほどの運転手は、「ブチャ、イルピンには詳しい、戦争被害が見たいなら全て場所が分かる」と言って、色々と案内をしてくれた。かなりフレンドリーな人だった。

 ブチャの街に入ると、最初に壊れた橋があり、そこにウクライナ国旗が立てられ、説明をする看板も設置されていた。悪く言えば「見世物」に、良く言えば「戦争の傷跡」となっていた。その壊れた橋の横には割と新しい橋が出来ていた。これはロシア軍が首都キーウへ侵攻するのを阻止する為に、ウクライナ側が破壊し、ここからウクライナ軍も敵を迎え撃った場所だったという。

 それからブチャの市街戦で焼けた車が集積された場所を見て、街中のいくつかの場所を案内してもらった。驚いたのは、既に復興している事だった。正確には「完成しているとしか思えない」と言うべきだろうか。

 多くの家屋は被害を受けていたようだが、スーパーなどの商店も破壊された所はあるが、それらは二年の間に元のような新しい物を建てて、復旧しているという。

 確かに街中に被害を受けた家などは所々にあったが、それらの横には同等の新築の建物がある。そのような新築の綺麗な家が町の多くにあった。

 裏を返せば、町が綺麗に見えるのは、それだけ破壊された事を物語っている。少し複雑な気持ちになったが、その町を平和そうに多くの市民が行き交い、生活している。犬の散歩は良く見かけた。もしかすると日本よりも犬を飼う割合が多いのかもしれない。

 物は新しい物と交換したら元通りになるかもしれないが、心の傷や戦災で受けた怪我、あるいは命を落とした人は元通りにはならない。少なからずの人々が、市街戦によって家族や友人・知人を失っているのだと思う。

 しかし、戦時下だからこそ、そのような悲しみに落ち込んでいる訳にはいかず、残った者が強く前を向いて、前以上に日常を取り戻して、そして、そこで日常生活を営む事が一国民に出来る最大の戦いなのだろうと、そのように思った。

(次号につづく)